2011年10月23日日曜日

土嚢に込めた思い

被災地ボランティアに行ってきた。
新宿から現地に向かうときから、そぼ降る雨だったが、着いた頃には本降りの雨。

そして。
嗚呼、目の前を覆うのは津波で破壊しつくされた家、営み、命。
何も悪いことしてないはずなのに、何てことだろうね。
たくさんのものをあっけなくさらってった痕跡をリアルに目にすると、
やっぱり絶句する。言葉にならない。

 いや、感傷に浸りにきたわけじゃないのだ。

ボクらボランティアに割り当てられた作業は、
土嚢袋に側溝から掻き出された泥を詰めて、
それを積み上げていくというもの。
インドでならば、低カーストの人がやらされるようなことを
老若男女の参加者がひたすらに黙々とこなしていく。

こういう作業を特に日本を目茶苦茶にしてきた政治家や官僚が
率先してやればいいのにYO!、と無性に怒りが込み上げてくる。
だが、津波にのまれて惜しくも亡くなった方々の霊魂が前へ進ませようと、
そういう気持ちを抑制させるのだろうか、汗だくになりながらも、
終始、淡々とこの作業を続けることができた。

主にボクは土嚢を運んで積み上げる担当だったが、普段80kgのバーベルで
デッドリフトやスクワットをやってるのに、
この作業は雨で足場が悪くてうまく踏ん張れず、つい腰に負荷がかかってしまい、
ううう…となってしまった。
次回までにはこうならないコツを習得しておかねばな。

終日のはずだった、これらの作業は悪天候のせいで昼過ぎまでと変更になったが、
うずたかく積み上げられた無数の土嚢を見ると、ふん♪と、思わずドヤ顔になった。
参加した人も同じだったんじゃないかと思う。

そして、お昼には地元のお弁当が出された。
ごく普通の放射能に汚染された食材を使ったミックスフライ弁当だ。
それを食べながら、ふと思った。とてもじゃないが、
こんな弁当を子供には食べさせられないが、
ボクらR40はこうした汚染食品をむしろ積極的に食べるべきなのではないのか、と。

罪もない大勢の人たちが津波にのまれて亡くなったという事実。
ボクらが生きていられるのは、ホントにたまたまなんだ。
生き残ったボクらの命が価値あるものだったからでは決してない。
ただでさえ少子高齢化の抜本的な対策がなおざりになったまま、
国家の正常な機能がみるみる落ち込む一方の日本。
子供や子孫の未来を謳うのならば、原発を無くしていくのと共に、
汚染された食べ物をボクらが食べて、ある程度…そうだな、遅くとも72歳くらいまでには、みんな死んだ方がいい。そうして高齢化の分子の偏りを是正するのだ。

だいだらぼっちか、神みたいなものの痕跡を間近に見ると、
誰もがこうしてタナトスを呼び起こされるものなのか。
みんなも被災地にくると、こんな気持ちになるのだろうか。

帰りには福島の東洋健康センターっていうところのセシウム温泉につかりながら、
命は削り取られるが腰の痛みはやわらいでいくというアンビバレンツな感覚を堪能する。

ああ!これってスマックにも似ているな。

内省すれば、いやしくもボクだけは生きていたい!と魂が叫んでいるわけではないのだ。
原発は絶対に無くすつもりだが、それは自分が長生きしたいからってわけじゃ
ないんだよな…って白昼夢が、積み上げられていく土嚢のごとく、頭に拡張していくのだった。

命の尊厳と尊重 ≠ 長生き なのだから、ね。

2011年4月20日水曜日

今なお原発事故の放射性物質の放出によって
ボクらは日々、不安にさらされ、不満をつのらせているわけだが、
それでも過半数が原発を肯定しているという、この事実!

http://www.asahi.com/national/update/0417/TKY201104170324.html

これまでは原発を推進、維持する側というのは、
それが生み出す利権、利益などの恩恵にあずかるのがその主な動機で、
この事故によって損失がそれを凌駕する勢いであってもなお、
その信念を貫かせる正体とは一体何なのか。正気なのか。

では推進、維持派に依って立って考えてみよう。

>>現在、人間が扱える(とされている)最も強大なエネルギーは原子力である。
>>それを手放すのは技術立国であることを放棄することに等しい。

これに対してボクは反論するすべを持っていない。
またしても被曝した、核の前に屈したという敗北感は受け入れがたいものがある。

>>隣国が原発、もしくは核兵器を持っているかも知れないという脅威に対して、
>>原発を保持しているというのは、それらへの牽制として有効である。

トモダチ作戦の米国が自国の利益のためにトモダチでいる間は
大丈夫かも知れないが、それは恒久的なものではないだろう。
さらに日本がEUとかの仲間にいれてもらえることもないだろうから、
隣国、アジア諸国との外交はこれからも非常に重要だ。

>>現状の生活様式を低下させることはできない。

石原慎太郎の言うように、これまでの大量生産・消費からは
ボクらは脱却せねばならないだろう。これを低下とみるよりも進化と
捉えることができるような魅力的な施策は当然必要になってくるだろう。

>>代替エネルギーがないために消極的肯定。

現時点で非効率ではあっても、持続可能なグリーン電力の技術革新と
それが生み出す「安心」の双方からなるパフォーマンスの向上を期待したい。

>>反原発・脱原発派に対して脊髄反射的嫌悪。
>>未来のことより今が大事な刹那主義。
>>カタストロフ願望。

世の中には色んなヤツがいるよ、としかいえないな。

内閣府原子力委員会へ

化石燃料資源の乏しい我が国において、
原子力発電はまさに画期的な発電方法でありました。
そして、それを安全に運転していくことによって、
石油に依存しないという自立した国の在り方もたぶんに魅力的でした。

しかしながら、深刻な事故を起こした場合には計り知れないほどの
損失となるということが、今になってはっきりとわかりました。
実際にはスリーマイル島やチェルノブイリのような事例があったにもかかわらず、
国民の多くは技術立国である日本においてかような事故が起きるとは
思っていなかったはずです。

これまで原発によってわたしたちはたくさんの恩恵を受けてきました。
戦後の復興と高度経済成長を果たすことができたのも
原子力発電を抜きには考えられません。

しかし、わたしたちはそうした奇跡的な成功におごり高ぶっていたのです。
いつかは米国を追い越すことができると信じて経済を発展させてきましたが、
結局、追いつくことはできずに、今世紀に入りその差はひらく一方でした。
事実、インターネットなどの近代を象徴する技術はすべて米国製なのです。

残念なことに、21世紀以降のわたしたちは
技術立国の皮をかぶった怠け者だったのです。

敗戦の屈辱を克服するところまでは何とか漕ぎ着けたが、
それ以降は目先の利益ばかりを追求する意地汚い民族に成り下がってしまった。

それを端的に現しているのが原子力発電です。

本来であれば技術立国の名に恥じぬよう、半世紀以上昔の発電方法などに固執せず、
もっと安全で安価で効率の良い発電方法を開発していなければいけなかったのです。

原発事故を起こしてしまった今、負の遺産を子供、孫、子孫代々にわたって
押し付けることになってしまった。
これをあがなうためにわたしたちはこれから先、
一体どれだけの「電気料金」を支払うことになるのか。

原発は全く安価ではなかったのです。本当はとてつもなく高価な「電気」だった。
いや、結果そうなってしまったという方が正確ではありますが。

仮に今後も原発を存続させるとします。
新設するとしたら想定外の事故要因を限りなく打ち消した、
高度に安全設計ではあるが、非常に高額な施設となるでしょう。

そして原発による電気料金は既設原発の事故後の賠償を見込んだ
料金設定となります。
さらには国民には「不安」というストレスを継続的に与え続けることになるでしょう。
したがって原発の存続というのは、ただちにすべての原発を無くせというのと
同じくらいに非現実的なのです。

以上のことからわたしたちのこれからは、原子力ではない制御が可能な
新しいエネルギーの開発と生活の質を落とすことのない省エネルギーに
挙国一致で取り組み、
それと共に既存の原子力発電所を徐々に無くしていくべきなのだと思います。